あの人は車の運転が上手い。
あの人は車の運転が下手。
あの人はメガネをかけているから視力が悪いのだろう。
あの人はメガネをかけていないから視力が良いのだろう。
あの人は髪の毛が薄い。
あの人は髪の毛がふさふさ。
あの人が人気ということは〇〇というタイプは人気になりやすいのかもしれない。
あの人が人気ということは✕✕というタイプは人気になりにくいのかもしれない。
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今回の記事は「データや可能性を卑屈や落ち込んでる・攻撃と見られるのが超嫌い」っていう話をだらだら~と書くだけです。
データや可能性を卑屈や落ち込んでる・攻撃と見られるのが超嫌い。
色々な物ごとを見てデータや可能性ってありますよね。
こういうのって絶対みんな考えると思っています。
これに対して卑屈や落ち込んでる・攻撃と見られるのが超嫌いです。
データに感情って何も乗っていないし、言及していない限りは感情は乗らない。
例えば
「Aさんは視力検査で 1.5 だった」
「Bさんは視力検査で 0.1 だった」
というのはデータでしかない。
ここで「Bさんは眼が悪いのはアホだよな!」みたいな(?)攻撃もする気はない。
さらに
Bさんが目が悪かったのはもしかしたら遺伝かもしれない。
Bさんが目が悪かったのはもしかしたら目の酷使かもしれない。
Bさんが目が悪かったのはもしかしたらPCやゲームのやりすぎかもしれない
という可能性も考えられる。
そういうのを仮に誰かに言ったとき、SNSに書き込んだ時に
「親をバカにするな!」
「仕事を舐めるな!」
「ゲームを馬鹿にするな!」
みたいに言う人も見たことはある。
(直接言われたわけじゃない)
でもこれって研究や推測ではみんな普通にやっていることなのになっていつも思う。
ゲームのRPGで
〇〇がダメだったから〇〇はもう効かなそう。
〇〇が効かないということは✕✕は効くかもしれない。
というのを考えたことがある人はとても多いはず。
その時に頭の中で考えるだけで別に特別な感情ってないと思う。
敵を倒したいっていう感情くらいじゃないかな。
こういう言葉に対して
「あ、効かなくて落ち込んでる!」
という人も実際いるし、
「あ、〇〇が効かなくてヤケになってる!」
という人もいる。
とても不思議だ。
自分自身を見て何が良いか悪いかを判断するけどそこには感情はない
僕自身を見て色々と思う事もある。
例えば
僕のギタープレイはギターをやっている人にとっては好まれるタイプではない
それでも好きでいてくれる人は超極少数いる。
もっと好かれたい・評価されたいのなら好かれる・評価されるギタープレイをするべき
というのは頭の中にある。
卑屈になっているわけではなく、落ち込んでいるわけでもない。
これって数字や反応を見れば明らかなわけで、誰でも辿り着く答え。
「ギター」を「レアなアイテムを扱うお店」に置き換えても同じことが言える。
→「僕のお店はレアなアイテムを扱うお店で多くの人に好まれるタイプではない」
これは結果を見て導き出された答えにしかすぎない。
もし落ち込んでたり卑屈になってたらもっと感情を爆発させて言うよね。
他人を見て思う事も同じ
他人を見て思う事も同じ。
データや結果だけを見てる場合は感情は乗せてない。
先程のギタープレイに例えるなら
「あの人のギタープレイは流行りのプレイだ」
でもただの分析で何も感情を乗せてない。
嫉妬・攻撃でもなんでもない(笑)
仮に
「流行りの事をやっているから人気がある」
と思ったとしたらそれも1つの仮説にしかすぎない。
もしかしたらそこから「流行りのことをやれば人気になるなら僕もやれば人気になれるのかも?」となるかもしれない。
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誰かの身体的特徴でも同じ。
Aさんを見て
ハゲてて、身長が低くて、小太りで、メガネをかけている
と思ったとしても、それはデータやAさんという人間の特徴を覚えてAさんを認識したということでしかない。
特徴に対しては何も感情とかないよね。普通。
それに世界一周の旅をしたときに色々な人を見てきた。
肌も違うし体型も違うし性格も違う人を山ほど見たからそんなので何とも思わないよ。
別に他人がハゲてても小太りでも気にしたりバカにする方がどうかしてる。とさえ思う。
データや可能性に対しては感情はない。
その先に感情は生まれるだけ。
卑屈や落ち込んでる・攻撃と見られるのがとても不思議。
自分を見て分析をしているだけでそこに何も感情はないのにね。
何を感情的に言っているか、何を感情的に言っていないかは分かった方がいいよな~といつも思う。
自分が言われることは今はほとんどないけど昔は言われたこともあるし、
他人が言われているのを見て思うこと。
データや可能性を卑屈や落ち込んでる・攻撃と見られるのが超嫌い。
っていうお話でした。