経験や理論をその人が実践し立証するのが一番良い方法だと思う。
でも、唱えた人が出来ていないとしてもそれは「間違った考えだ・理論だ」とはならないよね。
そんなことをふと思った。
立証されていない正しい考えは存在する
昔にこんなことを考えた事があります。
「経済学者とかあれはダメとかこれなら大丈夫とかいうけど、分かってるなら自分で起業すれば100%成功するのにね。」
経済が分かってるなら自分が中に入れば成功です。
なんでやらないんだろうね?
本当は経済の事分かってないんじゃないの?
と思っていたんだけど、最近はそうじゃないなぁと。
まず、その人は起業家になりたいわけではないんだよね。
また、経済を研究したり予測するのが好きなんだよね。
研究や予測したりする参謀タイプに「分かってんならプレイヤー(起業)になりなよ」というのはすごい的外れの考えだよね。
何が言いたいかというと、「プレイヤーとして実証できていないならそれは間違った考え」というのは間違えなんですよね。
それはその人自身がプレイヤーに向いていない、あるいはプレイヤーとしては能力不足なだけかもしれないから。
それでも考えや理論は正しい事を言っているかもしれない。
なので、逆に「その人は出来ていない。けど考えとしては正しい」というのもありうる。
「お前が出来てねーじゃん」という考え
「そんなこと言ってるけどお前が出来てねーじゃん」というのは結構な人が誰かに対して思ったことがあるんじゃないかな。
もちろん僕もある。
口だけの人もいるし大言壮語の人もいる。
でも、だからといって考えが全て間違っているわけじゃないんだよね。
今は出来ていないだけかもしれない。
仮に出来なかったとしてもその人は無理だっただけで理論・考えとしては正解かもしれない。
だからね、その人が出来ているかどうかも見るべき点だけど、「考えを発言者と切り離す」という作業も必要だと思う。
発言者が出来ているか出来ていないか、それとは別で考えは正しいか正しくないかを考える必要がある。
「発言者が出来ていないから考えは間違っている」というのは、ある意味「思考停止」の状態でもある。
「名プレイヤー=名監督」ではないよね
スポーツの世界ではプレイヤーとして活躍した人が監督になるパターンが多い。
プレイヤーとして輝かしい成績を残したからといって、優れた監督とは限らない。
監督としてもすぐれた能力を発揮する人もいれば、凄まじくヒドイ成績しか残せない人もいる。
必ずしも「名プレイヤー=名監督」ではないよね。
ジョゼ・モウリーニョというサッカー監督
サッカーの監督に「ジョゼ・モウリーニョ」という監督がいる。
プレイヤーとしてはポルトガル2部止まりの選手。
引退後リスボンで体育教師をしながらユースの監督などをしていた。
その後プロチームの通訳やアシスタントコーチをして1部リーグの監督をし、監督としての才能が開花し超名門の監督になる。
その後異なる2つのチームを欧州王者に導いた監督のうちの1人であり、監督としてイングランド、イタリア、スペインのリーグ戦と国内カップ戦(プレミアリーグ、セリエA、プリメーラ・ディビシオン)優勝を成し遂げた。
まぁ、プレイヤーとしてはちょっと微妙だったけど、監督としては世界最高峰になった人がいるよというお話。
プレイヤーと監督業は別の能力が必要だからね。
能力の向き不向きというのもあったんだろうね。
※詳しくは ジョゼ・モウリーニョ wikipedia を見てね。
人それぞれ長けた部分が違うよね
「プレイヤーと監督業は別の能力が必要」「能力の向き不向き」というのがあるのだとしたら、「プレイヤーとして実証できていないならそれは間違った考え」と考えるのは違うよね。
音楽でもビジネスでも、プレイヤーと監督、さらに戦略を考える・・・などは異なる能力が必要。
楽器をプレイするのが得意な人もいるし、プレイはそれほどでも教えるのが得意な人がいる。
さらにプレイも教えるのも苦手だけど、能力向上の方法を見つける・考え出すのが上手い人もいる。
目の前で成功例があれば信頼性・信憑性は上がる。
でも、成功例が無かったとしてもその考え自体を考えることが出来ればいいんじゃないかなと思うんですよね。
「前例がないから失敗する・成功しない。」という短絡的な判断方法ではなく。
仮に実績が無くても長年考え続けたから分かるという人もいるし、年の功もバカにはならないです。
自分でしっかりと判断できるようになるのも大切だよね。
相手の考えをしっかり自分で考えないで切ってしまうのはもったいないよね。
というお話でした。